三木清

 言葉は魔術的なはたらきをする。或る人々にとっては、唯物論の名は、すでに最初から何かいかがわしいもの、汚らわしいものを暗示する。彼らはその名を聞くとき、肩をゆすぶり、十字を切って去り、それを真面目に相手にすることをさえ、何か為すまじき卑しきことであると考える。それにもかかわらず自己の唯物論として憚るところなく主張するマルクス主義は、もはや誰も見逃すことの出来ぬ現実の勢力である。一般に現実を回避することによって思想の高貴さを示そうとする者は、ただ単に然か自己を粧うのみであり、かえってたまたま彼の思索の怯懦と怠慢とを暴露するにほかならない。かつて哲学はフランス革命に対する感激によって著しい進展を遂げたように、今はまたそれは何らかの仕方でマルクス主義と交わることによって、恐らく現在の無生産的なる状態を脱し得るであろう。マルクス主義はそれ自身多岐多様なる意味において語られる唯物論の長い歴史の列に属している。人々はこれに特に近代的唯物論の名を負わせている。このとき冠せられた近代的とは正確には何をいうのであるか。マルクス主義はそのいかなる構成の故に、そもそも唯物論として自己を規定するのであろうか。

 すでに雜誌『思想』へ唯物史觀覺書として載せた三つの論文に、いま新たに草した「ヘーゲルとマルクス」なる一篇を加えて、人の勸めに從つて、私はここに一小册子を編む。固よりどこまでも覺書である。ここでは凡てが單に暗示されてゐるのみであつて未だ十分に規定されてゐない。それを一層具體的に、そして一層包括的に、規定すること若くは規定し直すことは、私にとつてなほ將來の課題として殘されてゐる。この課題の解決のために、若しこの書が幾人なりとも同情者を集め、進んでは協力者を贏ち得たならば、私の望外の幸福である。
 これらの小篇はその特殊なる成立の事情を負うて或る程度まで夫々獨立してゐはするが、少くとも方法的なるものに關しては一の共通の意圖のもとに繋り合つてゐる。私はそれらのものに於て理論の系譜學(Genealogie der Theorien)を目論見たのである。如何にして一定のイデオロギーは出生し、成長し、崩壞し、そして新しいものによつて代られるか、の系統を理解することが私の企てに屬してゐた。この系譜學の根本命題は、歴史に於て存在は存在を抽象することによつて理論を抽象する、といふことである。私はこのことをマルクスから學んだ。それは實にマルクスが「歴史的抽象」(historische Abstraktion)と呼んだところの過程である。――我々は更に更に多くのことをマルクスから學び得るしまた學ばねばならぬであらう。

 我々が物に行くのは直觀によつてである。これは如何なる物であらうとさうである。ただ物に行くといふのみではない、直觀によつて我々は物の中に入り、物と一つになるとさへいはれるであらう。故に知識といふものが元來何等かの物の知識である限り、如何なる知識も直觀に依るところがなければならぬ。直觀のない思惟は、如何に形式を整へるにしても、空轉するのほかない。直觀を嫌惡する論理主義者は、物を嫌惡するものといはれるであらう。論理はただ論理として價値があるのでなく、物に關係して價値があるのである。物に對して論理が押附けられるのでなく、むしろ物の中に論理が入つてゐるのでなければならぬ。しからば物の論理といふものには何等か直觀的なところがないであらうか。他方もとより直觀もただ直觀である故に尊重されるのではない、直觀に對する情熱は物に對する情熱でなければならぬ。しからばまた物の直觀には何等か論理的なところがないであらうか。
 およそ論理には差當りカントのいつた如く二つのものが考へられるであらう。カントはそれを一般論理と先驗論理といふ言葉で區別した。一般論理は認識のあらゆる内容から抽象して、言ひ換へると、對象に對するあらゆる關係から抽象して、思惟の單なる形式を取扱ふもの、つまり形式論理である。この論理に合つてゐる場合、我々の認識は正しいといはれる。しかしそれは未だ眞といふことはできぬ。なぜなら眞理とは我々の認識と對象との一致であり、眞であるためには我々の認識は對象に關係しなければならぬ。形式論理は未だ眞理の論理ではない。