濱田耕作

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 私は衣食住ともに無頓着の方で、殊に食べ物に就いてはデリケートの味感がないと見え、たゞ世間普通の意味での甘い物を食べさせられてさへ居ればよいのであつて、マヅイものを食はされても餘り文句は言はない方である。それで自分の家でも、子供達は却つて今日の飯は固いとか、柔か過ぎるとか小言を言つても、私だけは今日は強い飯の流義の家に逗つた日だ、今日は柔かい飯の好きな家庭の人となつたのだと諦めるのであり、お菜があまくてもからくても、やはり甘口の料理屋へ行つたと思ひ、辛口の料理法に出會はしたのだと思つて我慢をするから、細君や女中に向つては至極寛大に取扱ひ易く出來てゐる積りでゐるが、それでは折角料理に念を入れても一向張合がないと言はれた。成程さうかも知れぬ。何しろ斯う言ふ手合であるから、料理に關する事を「洛味」に書けと言はれても、一向持合せの材料がないので困つてしまふ。併し度々の御催促であるから、今日は異國で經驗した食物の話を少し思ひ出し、しぼり出して書いて見よう。

 カイロの騷がしい埃の町、出迎へて呉れた案内者サラーも宿屋の感じも、私達に所謂「オリエント」の惡い方面ばかりを印せしめた。此の遊覽地本位の市の、旅客に接する土人と埃及居住者とは、「ホテル」の番頭、給仕人、案内者、商店員と言はず、凡てがたゞ出來る丈けの利益を短時間のうちに占めようと考へ、其の極禮儀や節制をさへ失つてゐるらしく、此の金錢關係以外に、我々と彼等との間に何等人間的の交渉は成立してゐない。而して彼等以外の土人と我々との間は全く隔絶して、彼等は黒い顏を以て我々を白眼視してゐるのである。カイロに於いて私はヒユー氏の家庭の午餐に招かれ、又クレスウエル氏の懇切なる案内によつて、氏の專攻題目たる囘教建築を見物することを得たが、此等は皆な英人から受けた厚意である。其の間に於いてたゞアラビヤ博物館のハツサン氏が、我々をオールド・カイロの遺跡に導かれたことゝ、コブト博物館を訪問して、ハンナ氏に會つて、濃い「モツカ」を飮みながら心ゆく談話に耽つたのは、埃及に於いて本國人と接觸し得た稀なる機會であつた。而して之に由つて感じたことは、若しも斯かる機會がなほ多く與へられたならば、私の埃及觀は餘程變つたに違ひないと思つたことである。

 一月五日夕日の光に映ゆる壯嚴な櫻島の山影を後に、山崎君等の舊知に送られて、鹿兒島の港を後にした私は、土地の風俗や言葉を話す奄美大島や沖繩へ歸る人々の多くと同船して、早くも南島の氣分に漂はされた。船の名も首里丸である。幸にも此の冬の季節には珍らしい穩かな航海を續けて、夜は船長や事務長から恐ろしいハブの話や、不思議な島々の話に聞入り、次の日に大島の名瀬の港に大嶋紬の染織を見學して、テイチキと云ふ木が染料であることを覺え、七日の朝には早くいよ/\沖繩島の島影の見えるのに心を躍らした。
 今度思ひがけなく沖繩一見の旅に出るまでは、耻かしながら沖繩本島は淡路島か小豆島位の大さしかないものと思つて居たのであるが、成る程船の左舷の端から端へ連る此の海上に漂ふ長い朽繩の樣な「屋其惹」の島は、長さ四十里にも近いと云ふのは本當だと思はれた。私共は何時も、九州の片端に小さく入れられてゐる此の島の地圖を見せられてゐるので、つい斯う云ふ間違つた考へを起してゐたのである。これと同じ樣なことは、曾て布哇の島へ行つて其の大きなのに驚き、米國に渡つて再び其の廣いのに魂消たのも、畢竟何れも日本や歐洲と同じ一ペーヂの地圖に收められてゐるのに見馴らされてゐた爲めに外ならない。