羽仁もと子

みどり児のめでたさは、
その絶対の独自さである。
親やこの世の型の外にあふれている
その輝く自由さである。
絶対に自由な生命、
独自なる生命、
それが親々の生を通して
この世にあらわれて来た光栄を思おう。
親に人に私たちの見なれた型は、
みどり児の新しい生命の外側に深く刻みつけられている。
私たちはそれを見て、
あまり喜んだり悲しんだりすることをやめよう。
今、生まれしみどり児の
内なる光はめでたいものである。
絶対にめでたいものである。

 かわいいおさなご、幼児はいまもむかしも世界に充満しているけれど、そうして愛らしい意味でも、手のかかる意味でも、私たちの注意をその身のまわりにひきつけずにはおかない彼らだけれど、幼児というものをほんとうに知った人は、むかしから幾人いたでしょう。そうしてだれでも幼児をかわいがるけれど、本当の意味でかわいがる人は事実たくさんいないように思われる。おとなも子供もそれだからかわいそうである。
「汝ら幼児の如くならざれば天国に入る能わず」といって、ナザレのイエスは私たちに幼児を知れとおっしゃった。なるほど子供には罪がない、あんなにならなくてはというのだと単純にそう思う人は、すでに幼児を知らないのだと思います。なぜなら幼児にも親ゆずりの罪が十分あるからです。ただ彼らはそれを知らないのです。知らなくても罪があれば、そのある罪がはたらいて、またその上に新しい罪をつくりだしてゆきます。この大切なことをまず知らないで、どうして幼児がわかりましょう。この重大な事実をかるくみて、どうして幼児にほんとうにふかい同情をもつことができましょう。本当の同情なくして、どうしてほんとうに彼らを愛することができましょう。

 まず第一に、いま生まれたみどりごが、お産婆の手よりも何よりも、自分で生きる力をあたえられているのだということを、たしかに自覚している母親は幾人あるでしょう。都会の新式の家にすむ知識階級の母親から、農村の茅屋にすんでいる母親まで、赤ん坊や幼児の強い自力に気がついていないことにおいては、全然同一ではないかと思われます。その結果知識階級の母親は、そのもっている知識のために、しぜん子供を神経的に取り扱うようになり、無知な母親はただその感情のおもむくままに、かわいがったり叱ったりするだけのことになります。
 おさなごを新たに発見するとはどういうことであるか。いいかえれば、おさなごはみずから生きる力をあたえられているもので、しかもその力は親々の助けやあらゆる周囲の力にまさる強力なものだということを、たしかに知ることです。のみならず、そうしてその強い力が、われわれに何を要求しているかを知ることです。人は赤ん坊のときから、その生きる力はそれ自身のなかにあります。母親が自分のもっている知識や感情を先にたてて、知らずしらず赤ん坊のみずから生きる力を無視していると、赤ん坊というものは容易にその方によりかかって、そうして自分のなかに強く存在しているところのみずから生きる力を弱めてゆくものです。